前回泣き続けたと書いたが、実は私はホルモンバランスの崩れと特技がこじれて、泣くまでにややこしいことになっていた。
私の特技であり、仕事でもあるコーチング。
思考を整理する手法であり、感情をちゃんと感じて、自分の一番望む選択を作り選んでいく手法。
これが自分にややこしく作用した。
これは大したことなのか?大したことではないのか?
前回のお話はこちら。
コシタがダウン症であるということ。
これは実は新生児である時点では、他の赤ちゃんとなんら変わるところはない。
どの新生児も他の人のお世話なしには生きられない。
まぁ、低緊張があるので体が柔らかく、筋力がないのでミルクを飲みながら疲れてしまったりはするが、この時点では彼女は定型発達の赤ちゃんとそこまで変わるところはない。
そもそもダウン症は21トリソミーという設計図の名前で、その設計図で何ができるか(どういう症状が出るか)はかなり個人差があるとのこと。
何を心配するも、どれを心配するも、成長の過程で何が出るかわからないのだ。
加えてダウン症とは1000人に1人という、比較的多い障害だ。
小学校の時に同学年にいたし、友人の家族にもいるということを知っている。
これは悲しむことなのだろうか?
それとも、よくあることで大したことではないのだろうか?
泣いている場合か?
謎の比較さえ浮かんだ。
しかし、房室中隔欠損症。
これは今現在進行中の話だ。今心臓に問題があるのだ。
手術をしないと治らないし、手術は症例は多いとはいえ難しい手術だという。
つまり『心配事』としては、房室中隔欠損症が今の心配。
ダウン症は不確定な未来を心配する、ということになる。
そしてそれぞれに対応するケアをするために、保険関連など現実的な手続きが色々発生した。
やらないといけないことの優先順位づけ、そして今ここにある事実と、未来の起こっていない出来事に対する不安を、頭が整理し始めたのだ。
何を見ても泣ける、ゆえに混乱した
出産後はホルモンバランスが崩れて、ちょっとのことでも泣きたくなるという。
私の母は私を産んだ時に、「ちえ用に買ったおもちゃが1つしかない!!」と泣いたとか。本人にも何が悲しかったのかいまだに全くわからないという。
私は子供が医療的ケア児になったという事実に対して、ホルモンバランスが崩れているという感情が揺れやすい状態にも関わらず中途半端にセルフコーチングをする思考が動いてしまい、『今』悲しむをしてもいいのか、『何を』悲しんだらいいのか混乱してしまったのだ。
改めて書くと、なんてめんどくさい頭だ。
(そもそも、『してもいい』ってなんだ…。)
私の頭は未来思考が強いので、放っておくと未来のことばかり考えてしまう。
未来はまだ起こっていない。
だから先取りの心配をしないで、今できることを考える、という訓練をしていたがゆえに、この大きな出来事に混乱してしまったのだ。
悩もうが悩んでなかろうが、涙が出るなら出せばいい
幸い一人でゆっくり考え事をする時間がとれたことと、私の職業を知った看護婦さんが「お仕事がそれだったら、今悩みにくくなってるかも……」と言ってくれたから我にかえれた。
(この看護婦さんは、大学でコーチングを勉強したらしい)
まさに悩みにくい状態になっていた。
私の感情は『悲しい』を感じてるからいつでも悲しんでいいし、
「未来の心配を今しても、不確定すぎるから手放していい」も間違っていない。
私は『ただ、泣きたい』を選択してもいいと許可を出した。
気づいた後は、そうか……こんなこともあるんだなぁと思考の癖に感心するばかり。
自分自身がコーチングの恩恵を受けているのがまさに今。事実と思考と感情を分けて、分けた上で感情を優先するを許可できてる。
お子の小児慢性の資料ができたと病院から連絡が。ここからはdoingができる。
モヤモヤするの、一旦終了。— 大下千恵(ライフコーチ/ダウン症👧子育て中) (@yawn_c) 2019年4月5日
このツイートができるようになるまでに、15日もかかってる。
そして基本、私は前向きであることを実感した。
(そもそも、ここまで一度も「過去、あの時ああしてれば……」と考えたことがない)
家族も誰も、私たち夫婦を責めなかった。
いや、責められても困るのだが、どうも「何故出生前検査をしなかったのか?」など責められる事例が多いらしい。
なんてことだ。
うちの旦那は落ち着いた男だ。
事実を事実で受け止めることができる。
そして私に寄り添ってくれた。
母にいたっては「みんなでがんばろうね」と言ってくれた。
家族のそのよりそいが本当に嬉しかった。
コシタへのごめんねなり、愛おしさなり、
未来への不安なり、
家族の愛情の実感なり、
医療関係者の優しさへの感謝なり、
とりあえず動いてる感情はそのままで。
出る涙は出る涙で、そのままにしておくことにした。